境界-(-境界)=点
毎日毎日、よくもこんな暑い日が続くもので、イソップ寓話の北風と太陽で大勝利をおさめたからといっても、最近の太陽はイキリ過ぎである。いい加減北風が吹いて欲しい。今なら全裸で北風浴びるからさ。
まぁそんな文句をたれたところで、左手首の時計の日焼けや、ヘルメットの顎紐をなぞったドカチン焼印が薄れてくるはずもなく、日増しに間抜けな日焼けが色濃くなっていくのである。
人間にこうべを垂れた、そこらの犬畜生以上のモチベーションで散歩をしている最近ではあるが、その際に聴く音楽はもっぱら君島大空である。
エレクトロもアコースティックもノイズギターも全てごちゃ混ぜにして、調和、一体、混然と化した高カロリーな音楽を、さも素麺かの様に僕らの耳にサラサラと流し込んでくる。夏バテの身体にはピッタリ。
The White StripesやRoyal Bloodみたいな、所謂“引き算の美学”みたいなのも好きだけど、君島大空の様な、これ以上足す余地も無いほどに飽和し、何かを少し引いても崩壊してしまう、ジェンガの後半戦の様な音楽も好きだ。
実際のとこ、負の数字を引けば正になるし、結果は違えど、本質的に両者は同じプロセス、ベクトルを持ってして生まれたものだと思う。
1−1=0
1−(−1)=2
に通づる「 − 」に僕は美学を感じているのだろう。
過多か欠乏か
その2つの境界線上にこそ、境界線上だからこそ、滅茶苦茶なものが成立し得るのかと。
そういう、面では無く線、線ではなく点を掴みあぐねにいくアーティストが好きだ。音楽に限らず。