月並みな終わりと始まりと、
今日、新潟のラジオ局が閉局した。
別に、くりぃむのANNみたいな好きなラジオ番組があった訳でもないし、はがきを送ったことがあるわけなんてもなく。
ただ、通勤の車内で流れているから聴いているだけであった訳で。愛着とか興味とかは無く、でも日常とか平凡とかそういった言葉で表すことのできる俯瞰的な愛はあった。
閉局を知ったのは今月の半ばくらいで、それを聴いたときも驚きがなかった訳じゃないけど、悲しみというには、足首までしか浸からない程度の深さのものでしかなかった。
それから今日になって、いつもどおりの人がいつもどおりに、各々の番組を始めて番組の最後には「今までありがとうございました!」とか「またどこか出会いましょう」とか。
そうやって、一つの番組が始まっては終わって、始まっては終わって。パーソナリティが感極まって…とかも特に無く。番組ひとつひとつが、終わりの為に終わりを繋いで、ひとつひとつが確かに終わっていった。
このラジオ局に勤めていた人らは明日から何をするんだろうかとか
そのラジオを毎日聴いていた僕らは明日から何を聴いて出勤するんだろうとかを思ったりするが
きっと
そのラジオ局に勤めていた人らは明日から別のラジオ局で働いたりするし
そのラジオを毎日聞いていた僕らは明日から普通にテレビを流しながら出勤したりする
そして
そのラジオ局で働いていた人は、これまでと違う人と出会って、どういう訳かサウジアラビアで石油を採掘してるかもしれないし、ラジオじゃなくてテレビを見たせいで、上司の機嫌が悪くなって俺の評定が下がったりするかもしれない。
そうやって
終わり続けて、始まり続けて、変わり続けて
1が終われば2が始まるように、24が終わり0が始まり、365と0へを繰り返して、0から0になることを繰り返していく。
ミクロな視点で見れば、自分の体の細胞は生死を繰り返して自分を生かしているし、マクロな視点で見れば、生物の死は他の生物が生きる為のものになるし、もっと広義的に解釈すれば、ビッグバン以前の世界はそれによって終わり、始まっている。
そうして僕らが精一杯働いて、金曜日に酒を飲んで土曜日は二日酔いで潰れて日曜日は一日中Netflixな一週間という終わりは、マトリョーシカ的に内包され続ける。
僕らの1日は1週間に包まれ、僕らの1週間は1年に包まれ、僕らの一生は世界に包まれる。
例えば、赤道上にアスファルト舗装された一本道を、全速力で駆け抜けても結局元の位置に戻るような。ゴールは見えていないようで見えていて。しかしながら、見えていなくて。
こんな繰り返しを毎日お酒を飲んで繰り返しているようで。
SUP / HEAVEN (Official Music Video)