理解を捨てるということ
定期的に、こう、部屋を綺麗にする事に躍起になったり、逆に部屋の片隅に貝塚の様な、潰れた空き缶が積み上がっていたり。そんな情緒の写し鏡の様な部屋に住んでいます。
今がどっちかと言われれば、貝塚の方です。
上司の2/3が「えっ!?シングルに入ってるカラオケバージョン!?」っていうくらいに言語が聞き取れない。言語らしき音は聞こえるけど、ほぼインスト。意味が分からないではなく、その手前、言葉がわからない。
ここまで書いといて「俺、なんでこんなこと書いてんだ」って思うぐらい、記憶というか、情緒というかがグルングルン変わっている。
最近、思考実験にハマっている。
シュレディンガーの猫とか、トロッコ問題とか、テセウスの船とか。
思考実験ってのは殆どが答えの無い物である。いや、実際にはそれぞれの視点ごとに答えがあるものだ。
トロッコ問題だが、功利主義的な見方をすれば1人を殺す事が正だが、道徳的な見方をすれば多数の為に1人を殺してもいいのか?という風になる。
多分どちらも正解だし、どちらも間違っている。そのどちらも間違っていない・いるという見方、感覚、考え方がとても自分に馴染む。
でもそれに甘えてどちらも正解、どちらも良いなんていう、金子みすゞを曲解するのは好きじゃない。
相容れぬ理論を持つ者を排斥しろと言ってるんじゃない。自分の答えは持て、相手の意見を認知しろということです。理解はいらない。
この考え方は料理に於ける焼肉のタレや麺つゆと同じ万能感があります。
ゲイに不快感を持っていたって良い、トランスジェンダーを訳わからないと思っても良い、将来は絶対亭主関白になってやると思っても良い、スカトロプレイなんてありえん!と思ったって良い。
だって理解の及ばないものは、ずっと分からないんだから。分かったフリ、理解したフリが1番ダサいし相手にも悪い。
自戒も込めて。