ノイズの入れ物、
無に興じる事が多い。
いや、無に興じさせられているというか、否応無しに無を押し付けられているというか、本格的に思考を、考えることを受けつけなくなっている。
昔はもっとあれこれと考えては、本気の一喜一憂を見せていたが、最早そんなものとは友達の友達の友達くらいの距離感でしか考えられなくなった。むしろ友達の結婚報告ですら、無だ。
大抵、俺と似たような捻くれ者は、他人の幸せを羨んでは、露悪を晒して、ダメな自分に自己陶酔していくのが、毎晩のルーティーンではあるが、いつしかそのルーティーンも崩れた。
無で酒を飲み
無で寝て
無で起き
無で働く
人は考える葦と言うが、ただの葦だ。
俺は葦でいい。葦がいい。
ただの葦であれば考え無くていい。
考えたくないとは思わないが。
My Bloody Valentine / You Made Me Realise Sonicmania 2018
「私のことどれくらい好き?」に定量的に答えてみる
「私のことどれくらい好き?」
皆さんはこの問いにどう答えますか?
「世界中の人を敵に回しても」とキザなセリフを冗談交じりで、耳を真っ赤にして言いますか?それとも、両手をいっぱいに広げて「こーーーーーんぐらい!!」とジブリ女風に表現しますか?
全然ダメです。社会は常に定量的なんです。いつ、何を、どれだけ、5W1Hで世の中はまわっており、愛も数値で示さなければ相手に気持ちは伝わりません。
というわけで「私のことどれくらい好き?」にも定量的に答えてみましょう。
まず、定量的に物事を示すには、それの大小を表す”単位”が必要です。1mmより1mの方が長いように、1gより1kgの方が重いように、見えないものには単位をつけることで可視化できる。そう考えたときに、愛は時間で可視化できるように思う。
結婚50周年を金婚式と言って祝ったり、交際期間が長ければ長いほど愛が高まってきたと判断して、結婚を考える様になる。逆にスピード婚は「ほんとに大丈夫?」と周りに不安がられたりする。こうして、自分が持っている死ぬまでの時間を、自分にとっては取るに足りない有象無象の誰かではなく、1/7,700,000,000人の人にどれだけ費やしたのか。というある種押し付けがましい理論で、愛の大小をある程度測れると思う。
愛を測る定規
では愛の単位を作る。
世界人口は約77億人、そして、世界の平均寿命は72歳らしい。その72年で77億人全てに会おうとすると、1人当たり0.29秒しか会えない。ワンナイトラブって言葉がありますけど、ワンナイトを8時間だとしたら約10万人と愛することになる。超絶大乱交パーティかな?
というわけで愛の単位は0.29sec/loveを基準として、愛情の大きさを定量的に考えていきたいと思う。「愛の単位はsec/love」って昭和の歌謡曲にありそうな字面ではありますが、気にせずに行きましょう。
【人の数で表す】
単純に、誰か大切な1人へ注いだ時間で、どれだけ他の人に会えたのかで表してみる。
前提として、18歳で高校を卒業してすぐに付き合った人と、そのまま生涯(72年)を添い遂げるというパターンで考える。
付き合ってから、死ぬまでの54年間で0.29sec/loveずつ人に会ったとしたら、約58億人と会える事となるので、中国、アメリカ、インドネシア人以外には全て会ったことになる。
なので「世界中の人を敵に回しても君を守る」という無謀極まりないセリフより、「中国、アメリカ、インドネシアを敵に回しても君を守る」と表現したほうが相手に誠意が伝わりやすいだろう。
【重さで表す】
愛情が大きすぎると「愛が重い」と表現されることがある。というわけで重さで考えてみる。
前提条件は同じとして、54年間で出会った約58億人に世界平均体重である62kgを乗じてみる。その重さ約3億6千万トンである。
あまりピンとこないので、世界最大の重機「Bagger 293」と比較してみよう
Bucket Wheel Excavator (Bagger 293)
Bagger 293の総重量は1万4200トンなので、愛換算で約2万5千台分になる。結局ピンとこないような気もするが、愛換算にする際に、このクソデカ重機214台を端数として切り捨てられる程のスケールということだ。
「僕の愛情と君の体重を比べたら、君の体重はBagger1台程度の些細な問題さ」
100キロデブを口説くときに使おうと思います。
【温度で表す】
こちらも重さと同様に、「アツアツな関係」だったり熱愛だったり、温度が高そうであればある程、良い関係であることを表しますよね。
というわけで、58億人に、おおよそ平熱であろう36.5℃を乗じる。
約2100億℃になった。ちなみに太陽の中心温度が約1500万℃、核融合に必要な温度が約1億2000℃らしいので、太陽のKomachi Angelより核融合のAtom Devilの方が温度的には近かったりする。Atom Devilでも遠く及ばないが…
【水で表す】
人間は体重の約60%が水でできていると言われています。
愛とは生に必要不可欠な営み、また、同様に生に必要不可欠な水で表してみる。
前述の通り、世界平均体重は62kgとし、その60%が水とすると一人当たり37kgが水だ。そしてまたも58億人に乗じると2億1500万㎥となった。琵琶湖781杯分である。あまりパッとしなかったので、別のもので表してみる。
南極大陸の氷の約0.8%だ。あれ…?と思うかもしれないが、南極大陸の氷は257億㎥もある。南極大陸が凄すぎる。比較対象が過大ではあったが、ツンデレのあなたには「あんたなんか南極大陸の氷の0.8%くらいにしか思ってないんだからねッッ…!!」というセリフがぴったりだろう。比喩が氷なのも相まって、ツンデレキャラにぴったりかと。
ここまで定量的に愛を考えてみましたけど、愛を数値化すればする程、愛というものの本質から離れていく様な感じがしました。愛を語るブログに重機が出てくるんじゃないよ。
結局の所「私のことどれくらい好き?」と言われたら、熱烈ベロチューからの丁寧セックスという、The定”性”的が最適解な気がします。それに人の一生を基準として、様々な単位に換算しているだけでしたので、定量的を求めれば求める程「一生一緒にいよう」が一番わかりやすいことを逆説的に示しただけのようです。
愛のあるセックスに精だしたりしような。
ポエム列伝
最近涼しいですね。
ハゲが進行している同僚に向けた言葉ではありません。伊藤だよ。
殺したくなるような暑さの夏も終わり、センチメンタルな秋が近づいてきました。夏の勢いで付き合った彼氏が急に素っ気なくなって、手首の傷が増え始めていませんか?酒に溺れて、死にたいとツイートしていませんか?
私は秋が好きです。
夏の所為なのか、どこか感傷的で、哀愁を其処彼処で感じれる秋の雰囲気が好きです。
そしてこれも、そんな秋の所為でしょう。
激烈ポエム始めました。
https://www.instagram.com/oti_ito_oti/
俺の秋はこれから
M-SHELL
何だが、まぁ、こう世の中はエネルギーに満ち溢れているというか、自分の交友関係を無限に上流へ辿っていってもたどり着く筈のないような人の事に一生懸命にキレたり、喜んだりしている。
怠惰という漢字は俺の日常をかたどった象形文字と言われていますが、ほんとに他人に興味が無い。勘違いしないで欲しいのが、人が嫌いなわけじゃない。興味が無い。
人間関係ってのは、わざわざ手を差し伸べて掴みに行くもので無くて、自分の凹凸に相手の凸凹が勝手に組み合わさっていくものだと思う。
どう頑張ったって個性は変わらないし、変えるものでもない。上から落ちてくるテトリスブロックの形が自分に合っているか?そうやってテトリスもとい、人間関係は作り上げていくものだと思う。対人コミュニケーションは受動的であるべきなのだ。
まとまりがつかなくなってきた。
ほうじ茶はソーダにすると美味い。それだけだ。
車のヘッドレストは俺のこと
彼女とドライブしてたら「たまには音楽かけないでいよう」と言うので、「ジョンケージじゃん」と私が返しましたら、「訳わからないこと言わないで」と一蹴されました。
小賢しいインテリ風知識を身に付けたところで、全くもってコミュニケーションの盛り上がりがプラスにならない。
思考実験にハマっていると綴った気がするけど、ただの哲学的オナニーだったことに気が付いた。オナニーしているつもりはないのに、気がつくとあらゆるところでオナニーをしてしまっている。東京オリンピックオナニスト総合の代表選手の名は伊達ではなかった。
しばらく洋楽を聴いていなかったので、久しぶりに我が心のインディー味噌汁、Car seat headrestを聴いた。インディー味噌汁って何だ?まぁ心にグッとくる的なことで。
やっぱり彼の陰気な泥臭さというか、古本のあの独特な匂いの感じというか。宅録でBandcampにコツコツと音源あげてここまできたという轍が似合ってる。むしろそれ以外考えられない様な感じ。
そういう生き方俺には出来ないから凄く憧れる。女の子にちやほやされたいし、「ちんちんってイカの匂いするよね」っていう呟きに1万いいねして欲しい。何も努力せずに賛辞を得たい。
わぁぁぁぁぁーーーーー!!!!!!努力したくねぇーーーー!!!!!
理解を捨てるということ
定期的に、こう、部屋を綺麗にする事に躍起になったり、逆に部屋の片隅に貝塚の様な、潰れた空き缶が積み上がっていたり。そんな情緒の写し鏡の様な部屋に住んでいます。
今がどっちかと言われれば、貝塚の方です。
上司の2/3が「えっ!?シングルに入ってるカラオケバージョン!?」っていうくらいに言語が聞き取れない。言語らしき音は聞こえるけど、ほぼインスト。意味が分からないではなく、その手前、言葉がわからない。
ここまで書いといて「俺、なんでこんなこと書いてんだ」って思うぐらい、記憶というか、情緒というかがグルングルン変わっている。
最近、思考実験にハマっている。
シュレディンガーの猫とか、トロッコ問題とか、テセウスの船とか。
思考実験ってのは殆どが答えの無い物である。いや、実際にはそれぞれの視点ごとに答えがあるものだ。
トロッコ問題だが、功利主義的な見方をすれば1人を殺す事が正だが、道徳的な見方をすれば多数の為に1人を殺してもいいのか?という風になる。
多分どちらも正解だし、どちらも間違っている。そのどちらも間違っていない・いるという見方、感覚、考え方がとても自分に馴染む。
でもそれに甘えてどちらも正解、どちらも良いなんていう、金子みすゞを曲解するのは好きじゃない。
相容れぬ理論を持つ者を排斥しろと言ってるんじゃない。自分の答えは持て、相手の意見を認知しろということです。理解はいらない。
この考え方は料理に於ける焼肉のタレや麺つゆと同じ万能感があります。
ゲイに不快感を持っていたって良い、トランスジェンダーを訳わからないと思っても良い、将来は絶対亭主関白になってやると思っても良い、スカトロプレイなんてありえん!と思ったって良い。
だって理解の及ばないものは、ずっと分からないんだから。分かったフリ、理解したフリが1番ダサいし相手にも悪い。
自戒も込めて。
無を積む
今日が何の日かは知らないが
今日が金曜日であることは分かる
それだけ分かれば今日がどんな日であろうが関係は無い
何も考えずとも明日に繋がる
何も考えずとも明日に繋がってしまうこと
それの積み重ねでもそれなりに積めてしまうこと
無機質な積木を
無難な形の積木を
それを無心に無難に積んでいったところでいつかは崩れる
どうせ崩れるなら三角形でも積んじゃう?
なんて思えず
なんで思えず
そんなことを毎日毎日幾度も幾度も反芻し
今日も一つ積んだ